山口大学の学祖・上田鳳陽先生の子孫と鳳陽会(山口大学経済学部同窓会)の接点は長い間、途絶えていた。最近、子孫の上田慶太さんが首都圏に住んでいることが判明。東京支部との交流が始まった。
◇山口講堂を設立
上田鳳陽先生(1769年~1853年)は江戸時代、長州藩藩士、宮崎在政の3男として生まれた。幼少の頃、上田清房の養子となる。実名は上田茂右衛門纉明(つぐあき)。鳳陽は雅号である。
鳳陽先生は藩校・明倫館で学び、1815年、山口中河原に山口講堂を設立した。この山口講堂がのちの山口高商(現・山口大学経済学部)、そして山口大学の源流となる。
鳳陽先生は時勢を洞察する知識の取得、実力者の養成に努められた。山口高商は鳳陽先生の学風を受け継ぎ、士魂商才を建学の精神とした。
その後、鳳陽先生の子孫は山口を離れ、鳳陽会との接点が失われていった。
◇祖先の実像を探して
昨年(2023年)9月、四国・松山市で鳳陽先生の子孫、上田五郎氏の葬儀が営まれた。親族が参列する中に上田慶太さんがいた。
慶太さんは幼少の頃より、鳳陽先生の功績を聞いていた。年配の親族より、先祖である鳳陽先生から上田家の現在までの話を聞き、これを機に鳳陽先生の実像探しを始めた。
その一環としてネットで検索。鳳陽会東京支部のHPで「上田鳳陽先生の風貌」という記事を発見した。
この記事を書いたのは鳳陽会東京支部の葛見雅之(学23)事務局長である。慶太さんは鳳陽会東京支部にメールで連絡。港区三田の東京支部事務所で会うことになった。
当日、慶太さんは戸籍謄本の写しと上田家系年譜を持参していた。先祖は確かに鳳陽先生の実名、上田茂右衛門と記されている。間違いない。
◇明治時代の写真
さらに慶太さんは2枚の写真を見せてくれた。明治時代に撮影したものだ。
1枚は鳳陽先生の子孫、上田家第五代上田茂雄氏(1854年~1916年)。軍服の胸にいくつもの勲章を付け、りっぱなひげを蓄えている。一見、いかめしい風貌だが、まなざしはやさしい。
茂雄氏は、陸軍の一等獣医監などとして日清、日露戦争に従軍し、叙勲を受けたという。
茂雄氏はその後、四国・松山に移り住む。陸軍を退役したあと、牛乳会社の社長となった。大正5年、松山で死去。
もう一枚は鳳陽先生の墓前(山口市・乗福寺)で撮影されている。茂雄氏といっしょに山高帽をかぶった紳士が写っている。この男性はいったい、誰なのか。
◇山口高商校長
葛見事務局長がネットや文献を駆使して男性の正体を探した。結果が判明した。
男性はおそらく、横地石太郎氏(1860年~1944年)であろう。
加賀藩士、横地大十郎の長男として生まれる。明治時代、東京帝国大学を卒業。松山で教師となる。このとき、作家、夏目漱石と親しくなった。松山を舞台とする漱石の名作「坊ちゃん」の登場人物のモデルともいわれるが、本人は否定したようだ。
横地氏はその後、山口高商の教授として山口に赴任。山口高商の第三代校長となった。
鳳陽先生の墓前で撮影した写真はこのころのものと推察される。
◇空襲から逃れて
この貴重な写真を大切に保管していたのが同じく鳳陽先生の子孫、上田誠一さん(京都府在住)だ。
「写真は松山の上田家にあったのです。先の大戦中、米軍が松山を空襲しました。家族が古いアルバムを持ち出し、難を逃れました。その写真を私が預かったのです」と語る。
また、誠一さんはこう証言する。
「言い伝えによると、茂雄は明治時代、山口高商の式典などに招かれていたようですよ。墓前の写真はその際、撮影したのかもしれませんね」
◇鳳陽会東京支部との交流
上田慶太さんは鳳陽会に対して親しみを抱く。東京支部総会が今年6月1日、アルカディア市ヶ谷で開催される。慶太さんは来賓として出席。あいさつする予定だ。
「ご先祖が山口大学の学祖なのですね。誇らしい気持ちです。(山口大学経済学部)同窓会が鳳陽の名を冠しているのはたいへんありがたい」と話している。
(東京支部 塩塚 保)
(会報「鳳陽」第181号より転載)