挿話:「上田 鳳陽」先生のこと。

 上田 鳳陽。

萩藩士、宮崎()兵衛(ひょうえ)在政(ありまさ)の三子として、現在の山口市大内氷上に生まれ、上田清房の養嗣子となった。

名を纘明(つぐあき)(あざな)恭述(きょうじゅつ)、通称は幾之允(いくのじょう)と言い、後に茂右衛門(しげえもん)と改めた。

幼少より学を好み、「萩明倫館」に入ると,特に山縣(やまがた)太華(たいか)と親しくなり、常に互いに論じ合っては切磋琢磨し、志を語り合った。ある時、鳳陽は太華に向かい奮然として、「大丈夫、まさに天下を経理するを以って志とすべし。何ぞ、区々(くく)(こまかいことにこだわって)章を尋ね、且、彫虫(ちょうちゅう)(字句を飾り繕うこと)は末技、又、何ぞ歳月を玩愒(がんかつ)せん(いたずらに過ごす)哉。」と述べたと言う。鳳陽先生の学究としての志の高さを示す挿話です。

又、先生は人一倍、人情に厚く感激の性であったことが伝えられている。学舎にあっては日夜読書をして倦まず、真理発見に狂喜するかと思えば、自らを罵り哭くといった様子で人々を驚かせているし、殿様の前などで講義をしている時でも、講じている内容に自ら感動のあまり絶句してしまうこともあったと云うことです。

懐かしい朋友が尊王攘夷の志士となってこっそり尋ねて来た時などには、必ず大喜びで酒食でもてなし、帰る時には雨の中であろうとどこまでも名残を惜しんでついて来るので、友人が「もう、本当に結構です。」と言うと、今度は路傍の石に腰掛け友人の姿が見えなくなるまで見送り続けるといった有様でした。

一大郷土調査研究誌[風土注進案―山口宰判の部]は、上田鳳陽先生が編纂したもので、多くの注進案の内で最もすぐれたものとされており、先生の学術研究者としての面目躍如たるものを伺い知ることが出来ます。